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東京地方裁判所 平成4年(ワ)2325号 判決 1995年12月26日

本訴原告・反訴被告(以下「原告」という。)

武谷ピニロピ

右訴訟代理人弁護士

庄司正臣

本訴被告・反訴原告(以下「被告」という。)

古内ひかる

右訴訟代理人弁護士

相磯まつ江

芹澤眞澄

主文

原・被告の各請求は、いずれもこれを棄却する。

訴訟費用は、本訴・反訴を通じ各自の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  本訴

被告は原告に対し、六五万一五五〇円及びこれに対する平成三年八月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  反訴

原告は被告に対し、二〇五万二六七〇円及びうち一四五万二六七〇円に対する平成二年三月二七日から、うち六〇万円に対する平成四年四月七日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

原告は、総合病院「武谷病院」(以下「武谷病院」という。)を経営している医師であるところ、看護婦養成の一環として被告を看護学生として採用し、看護学校在学中の二年間に亘り学費及び生活費等の支給をなした。本件は、原告が被告に対し、被告は看護学校卒業後二年間以上武谷病院において勤務する旨の誓約に反し一年間で中途退職したのは債務不履行である等と主張して右の支給分の一部の返還を求めたのに対し、被告は、武谷病院に看護学生として勤務していた間の約定外勤務手当と通学手当の未払分があるとしてこの支払を求めるとともに、本訴の提起は違法である等として慰謝料等の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告は肩書住所地において武谷病院を経営している。

2  原告は、昭和六三年三月一一日ころ、被告を採用し、被告は、武谷病院において看護学生として勤務する傍ら同年四月一日に所沢看護学院に入学し、平成二年三月三一日、同学院を卒業した。

被告の賃金は、一か月の基本給が昭和六三年四月から四万九〇〇〇円、平成元年四月から五万一五〇〇円であり、勤務時間は、午前八時から同一一時三〇分までと、右学院授業終了後の午後六時から同八時までの五時間三〇分(但し、平成元年一〇月からは終業時間が午後七時となったので、同月からは四時間三〇分となった。)であった。

3  被告は、平成二年四月一日から武谷病院に准看護婦として勤務したが、平成三年三月三一日をもって退職した。

二  争点

1  本訴について

原告が被告に支給した学費及び生活費等の返還請求権の有無である。

(原告の主張)

原告は、被告を採用するに際し、被告との間で、被告が看護学校在学中の学費及び生活費等を支給するのと引き換えに、被告は看護学校卒業後二年間以上武谷病院に准看護婦として勤務することの約定をした。そこで、原告は被告に対し、被告が所沢看護学院に在学中の二年間に亘り学費等合計八三万五一〇〇円(内訳 入学金一五万円、制服代五万二二〇〇円、教科書代二万〇九〇〇円、授業料四八万円(但し、一か月二万円の二四か月分)、後援会費三万六〇〇〇円(但し、一か月一五〇〇円の二四か月分)、通学交通費四万八〇〇〇円、修学旅行費二万八〇〇〇円、海の家補助費二万円)及び生活費等合計一五六万円(内訳 食費七二万円(但し、一か月三万円の二四か月分)、寮家賃六〇万円(但し、一か月二万五〇〇〇円の二四か月分)、光熱費二四万円(但し、一か月一万円の二四か月分))の支給をしたのに、被告は右約定に反し、武谷病院に一年間勤務したのみで退職してしまった。

よって、被告は原告に対し、右被告の准看護婦養成を目的とする現物給付契約における債務不履行による損害賠償請求権、立替金返還請求権、負担付贈与契約、不当利得返還請求権に基づき、右学費等合計八三万五一〇〇円のうちの約二分の一相当の四一万七五五〇円と右生活費等合計一五六万円のうちの一割五分相当の二三万四〇〇〇の(ママ)合計六五万一五五〇円の支払義務があり、この支払を平成三年八月五日ころ到達の書面で同月二〇日までに支払うことの催告をした。

(被告の答弁及び主張)

原告と被告との間に原告主張の被告が武谷病院に二年間以上勤務しなければ学費及び生活費等の返還をする旨の約定は存しなかった。

仮に、右約定が存したとしても、これは労働基準法一四条により一年間に限り有効であり、また、このような約定はいわば「お礼奉公」の性格をもった前近代的な契約であり、被告に身分的隷属関係を強いるものであるから、同法一三条により無効である。

2  反訴について

(一) 未払約定外勤務手当請求権の有無

(被告の主張)

被告は、武谷病院に勤務していた昭和六三年四月一日から平成二年三月二〇日までの間、約定勤務時間が三〇三五時間であったところ、実勤務時間は四二〇四時間四三分であったので、約定外勤務時間は一一六九時間四三分となる。ところが、原告は被告に対し、約定外勤務手当として四二万二五一〇円の支払をなしたのみであるから、残余の約定外勤務手当を支払うべき義務がある。

ところで、被告の一時間当たりの労働単価は次のとおり算出される。すなわち、女性看護補助者の昭和六三年における産業別企業規模一〇〇人から九九九人の一八歳から一九歳の平均時間外時給は一三六〇円であり、平成二年における産業別企業規模一〇〇人から九九九人の二〇歳から二四歳までの女性看護補助者の平均時間外時給は一六〇〇円である。したがって、被告が武谷病院に勤務していた昭和六三年三月一一日から平成二年三月二六日までの一八歳から二〇歳までの武谷病院の従業員は約一二九人であったから、一時間当たりの労働単価は一三六〇円と一六〇〇円との平均額である一四八〇円となる。

そうすると、被告の右約定外勤務時間一一六九時間四三分に右一時間当たりの労働単価を乗じると一七三万一一八〇円となるので、これから支給ずみの右四二万二五一〇円を差し引くと一三〇万八六七〇円となり、これが未払約定外勤務手当額となる。

(原告の答弁)

被告の約定外勤務時間は四三七・一六六一時間であり、原告は被告に対し、約定外勤務手当として六一三時間分を支払っているので、過払となっている。

被告の一時間当たりの労働単価は七五〇円が相当である。

(二) 未払通学手当請求権の有無

(被告の主張)

原告は被告に対し、被告が看護学生として在学中一か月六〇〇〇円の通学手当を支払うことを約した。

したがって、昭和六三年四月から平成二年三月までの間の通学手当は一四万四〇〇〇円となる。

(原告の答弁及び主張)

被告主張の約定をなしたことは認めるが、税務処理上の理由から被告が支払うべき宿舎費一か月六〇〇〇円の支払と通学手当一か月六〇〇〇円の支払とを差し引き処理していたのであるから、支払ずみとなっている。

(三) 慰謝料請求権の有無

(被告の主張)

原告は被告に対し、被告が原告を退職後再三にわたり本訴と同様の金員の支払を請求したばかりか、本訴提起をなし、本訴においては被告に対しいわれなき主張をなした。例えば、平成四年四月三日付準備書面では「それは被告の誓約としての責任に目をつぶろうとするご都合主義にほかならない」とか、「被告の主張は免れて恥なき徒を許すこととなり」と主張し、平成四年五月一五日付準備書面では「被告はエステをやると言って退職したのであるから、原告の主張金員を損害金として支払うべきである」等と主張した。被告は、原告の以上の不当な措置により著しい精神的苦痛を被ったのであり、これを金銭に評価するならば五〇万円を下ることはない。

(四) 弁護士費用

(被告の主張)

被告は原告の本訴提起によりこれに応訴するために被告訴訟代理人に一〇万円の支払を余儀なくされた。

第三争点についての判断

一  本訴について

証拠(<証拠・人証略>)によると、次の事実を認めることができる。

原告は、昭和二四年から住所地で武谷病院を経営しているが、わが国においては看護婦不足が積年の課題であり、武谷病院にあっても同様であったことから、昭和四二年から看護生徒の給費制度を設け、看護婦養成に助力してきた。この養成の一環としてなしていたのが高等学校卒業または卒業見込みの者を準職員として採用し、勤務の傍ら学費及び生活費等を支給して准看護学院に通学させ准看護婦の資格を取得させ、この資格を取得後二年間以上武谷病院において准看護婦として勤務させることを誓約させるというものであった。

このようなことから、原告は、昭和六三年度についても看護生徒の募集要項を作成し、公共職業安定所にも求人票を提出した。右募集要項の概要は、採用条件は高等学校卒業または卒業見込みの者で、准看護学院に通学し、准看護学院卒業後二年間以上武谷病院に勤務することを誓約できる者であり、採用後の条件は身分は準職員(但し、看護生徒としての養成期間中)であり、勤務時間は午前八時から同一一時三〇分までと帰校後の午後五時ころから同八時までで、休日は日曜、国民祝日(但し、業務の性格上休日に出勤することがある。)であり、給与は求人票のとおりで、現物給付として三食支給、入学金、月謝、教科書、制服、通学交通費があり、貸与として白衣、院内用靴またはサンダル、寮使用備品(座机、衣類収納箱)があるというものであった。

なお、右求人票には、就業時間は午前八時から同一一時三〇分までと午後六時から同八時までの実働五・五時間、有給休暇は採用の年は四日、二年目は六日、最高は七年目で二〇日となり、賃金は基本給が一か月四万九〇〇〇円、通学手当が一か月六〇〇〇円、職務手当が一か月四〇〇〇円、特別手当が一か月四〇〇〇円、物価手当が一か月五〇〇〇円であり、控除として社会保険料が一か月六八〇〇円、宿舎費が一か月六〇〇〇円であることが記載されていた。

被告は、高等学校在学中の昭和六二年の秋ころ、進路指導室において、母親同席のうえ、武谷病院の事務長から右募集要項と求人票とを提示され、これに記載された内容の概略の説明を受け、昭和六三年三月七日、父親の同席のうえ、右募集要項を確認のうえ応募し、父親とともに就職後は諸規則を守り誠心誠意勉学と業務に励む旨の誓約書を提出した。

以上の経緯で原告に採用された被告は、前記のとおり武谷病院で看護学生として勤務する傍ら所沢看護学院に通学し、平成二年三月三一日に同学院を卒業し、同年四月に実施された准看護婦試験に合格して准看護婦資格を取得した。

原告は被告に対し、右の間、右採用条件に従い賃金を支払うとともに、所沢看護学院に対し原告の主張する学費等を支給したほか、原告の主張する生活費等の現物給付をした。

そして、被告は、同月から武谷病院で准看護婦として勤務したが、待遇に不満を抱くようになり、平成二年秋ころ、看護部長に退職の希望を伝えたところ説得されていったんは勤務を継続する気持ちにはなったものの、平成三年三月ころ、再度同部長に看護婦の仕事はしたくないこと、エステテックの道に進みたいことを述べて退職の申し出をし、同月三一日をもって退職をした。

以上の認定事実によると、被告は原告に採用されるに際し、原告に准看護婦資格取得後二年間以上武谷病院に勤務することを約したとはいうものの、この約定は、原告の被告に対する希望表明に対し被告がこれに了解を与えたもの、すなわち、原告と被告との間に法的拘束力を伴わない、いわゆる紳士協定にすぎないものと解すべきである。なぜならば、右約定に法的拘束力を認めることとなると、被告に意に反した就業を認めることとなり、このような解釈は現行法上では認められないからである。そうすると、原告は、被告の右約定違反を捉えて前述のとおりの多様な法的構成の下に本訴請求を根拠付けてはいるが、右約定は右の(ママ)述べた以上の法的拘束力を有しないのであるから、本訴請求はその余の点について判断するまでもなく理由がない。

二  反訴について

1  約定外勤務手当請求について

被告の所沢看護学院在学中の昭和六三年四月一日から平成二年三月三一日までの間の勤務時間は前述したとおりであるところ、被告のこの間の勤怠関係はタイムカードによって管理されていた(<証拠略>)。

被告は、右タイムカードに打刻された時間を基準に実勤務時間を算出しているが、タイムカードは一般には従業員の勤怠管理の便宜のために利用されており、タイムカードの打刻は出・退勤時刻を表示はするものの、必ずしも実勤務時間を表示するものではなく、原告にあっても同様であることが認められる(<人証略>)。

したがって、右タイムカードに打刻された時間を基準に被告の実勤務時間を算出している本件約定外勤務手当請求は、その前提において誤っているといわなければならない。

ところで、証拠(<証拠・人証略>)によると、被告の所沢看護学院在学中の昭和六三年四月一日から平成二年三月三一日までの実勤務時間は三六八七・二三二七時間であり、このうち約定外勤務時間は四三七・一六六一時間であるが、原告は被告に対し、約定外勤務手当として六一三時間分を支給しているから、一七五・八三三九時間分が過払いとなっており、以上のことは被告が所沢看護学院のカリキュラムに基づき武谷病院においてのいわゆる自院実習を被告の勤務時間に含ませてのことであるが、この自院実習は、そもそも同学院のカリキュラムであって武谷病院における勤務時間とはみれないので、これを被告の勤務時間に算入しないとすると、原告の過払分は四二一・一三三八時間となることが認められる。

被告は、タイムカードに打刻された時刻を基準に実勤務時間を算出すべきであることの根拠として、勤務開始時刻までに準備をしておくように担当看護婦から指示されていたとか、所沢看護学校(ママ)での授業終了後直ちに帰院するように指示を受けていた等と供述するが、仮りにこのような指示があったとしても、高等学校卒業直後の未成年女子である被告を看護学生として採用した原告としては当然の指導の一環であったと考えられるし、右(人証略)の証言によると、タイムカードに打刻された時刻が勤務時間を表示するものではないことが認められる。

次に、被告は、被告の労働単価の算出を女性看護補助者の産業別企業規模を基準にしているが、被告は、看護学生であって看護補助者とはその職務内容・地位が全く異なる(<人証略>)のであるから、看護補助者を基準に算出している被告の主張は採用できない。

以上のとおりであるから、本件未払約定外勤務手当請求に関する被告の主張は、約定外勤務時間の点に関しこれを認めるに足りる証拠はないから理由がない。

2  通学手当請求について

原告は、被告が所沢看護学院に在学中の昭和六三年四月一日から同学院を卒業した平成二年三月三一日までの間、被告に対し、通学手当として一か月六〇〇〇円の支払を約したことは争いがない。

証拠(<人証略>)によると、原告は、税務処理上の関係から経理上被告に対する右通学手当の支払をなしたこととし、反面、被告から支払を受けるべき宿泊費一か月六〇〇〇円を受領したという方法で処理していたことを認めることができるから、本件通学手当は支払ずみとなっているということができる。

したがって、本件未払通学手当請求に関する被告の主張も理由な(ママ)い。

3  慰謝料請求について

原告が被告に対し、本訴請求に先立ち本訴と同様の請求をし、この支払のないことから本訴を提起したことは、准看護婦資格取得後二年間以上武谷病院において勤務することの約定に違反しながらこのまま放置しておくことは原告の設けている看護婦養成制度が根本的に覆されることを恐れたがためであって、これ以上の他意がないことが認められ(<人証略>)、また、前記准看護婦資格取得後二年間以上武谷病院に勤務する旨の約定も当然無効であるということもできないから、原告が被告に対し右のような請求をし、この支払がないことから本訴を提起したとしても、権利行使手段として直ちに違法であるとまでいうことはできない。

また、被告は、原告の本訴における主張の不当性を主張するところ、原告は本訴において被告指摘のとおりの主張を準備書面でなしていることは明らかであるが、これらのうち「被告の主張は免れて恥なき徒を許すこととなり」との表現は些か過剰の感を免れないが、原告の被告主張に対する評価を加えたに過ぎないから、違法とまではいうことができず、その余の表現についても違法ということはできない。

したがって、本件慰謝料請求に関する被告の主張も理由がない。

4  弁護士費用について

以上のところから明らかなとおり、原告の本訴提起に違法なところはなく、また、本件反訴請求についても理由がないから、本件弁護士費用の請求に関する被告の主張も理由がない。

(裁判官 林豊)

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